2022年12月31日土曜日

不透明な世界を考える (4)日本経済の将来シナリオ

 今日は大晦日、本年最終日に私が今年後半に感じた日本経済の現実的将来像を描いてみようと思う。

岸田総理は、新しい資本主義とか、賃上げ要請とか、色々やっているがこれらは一時的効果はあっても年単位で見ると効果はなく、むしろマイナスになることが多いと思う。その理由は競争原理に照らして、日本企業の競争力を奪う方向性だからである。政府に期待して日本経済が上向くことはあきらめたほうが良いと思う。日銀は経済が上向かないので、たとえ総裁が変わっても今後も金融緩和を続けると思っている。

その結果起こることは円の価値が下がる円安である。一時一ドル150円まで行った円安は、米国の利上げが止まりそうだということで135円くらいまで戻ってきた。来年末から再来年にかけては米国は利下げに転じるだろうから、一時的には120円くらいまで行くかもしれないが、落ち着きどころは130円くらいだと思っている。その後も日銀が金融緩和を続けると再び円安方向に向かうと思っている。その理由は通貨供給量の違いである。米国は利上げと同時に量的引き締め(QT)を行っている。これは景気が悪い時に民間の債権などを買って市場にドルを供給したものを売って、ドル供給量を正常に戻す操作で、景気が悪くなりすぎなければ行うことはないだろう。継続的金融緩和を行っている日銀とは大きな違いである。

円安になるとどうなるか? 日本人の平均給与は下がり、日本の物価もドルベースでみれば下がる。つまり「日本はモノが安い国」という見方が定着する。その結果、中国などに移転した日本の工場は日本に戻ってくる。日用品などの単純な組み立て作業の工場は東南アジアや、南アジアのさらに給与の安い国に移転するだろうが、製造ノウハウが大きな製品の工場は日本に戻ってくると思う。具体的には機械系の製品や新素材の工場などである。特にカスタマイズ要求の大きいB2Bの製品は日本の工場で作るのが適している。

日本企業だけでなく外国企業の工場も日本に作られることが予想される。キャタピラーやシーメンスの工場が日本にできてもおかしくない。それだけではなく、後継者不足に悩む日本の中小の工場で優秀なところは外資に買収されて、優良企業に生まれ変わるところも出てくるだろう。このようにして日本の製造業が復活して日本経済が上向く、というのが私が考える日本経済の将来シナリオである。

日本経済が上向くほどには日本人の収入は増えない。それは収入の多い幹部は日本人以外が多く、日本人は中堅以下の現場の労働者が多くなるからである。日本企業でも武田薬品や三菱化学など外国人が社長になる企業がちらほら出ているが、これも増えてくると思っている。そのほうが業績が上がると思うからである。すでに東大卒の就職先では外資系企業が増えており、優秀な人材は外資系企業に向かう傾向が見えている。

これは幼稚園から大学まで日本の教育は「周囲に合わせることのできる優秀な人材」を育成することを目標としており、個性を生かす教育になっていないからである。つまり日本の教育は工場労働者を育成するのに適した教育である。日本の教育で決断を求められる場面は非常に少なく、幹部の条件である決断力を育成するには適していない。これは昨日書いた江戸時代以降、現代まで続く為政者の方針がそうであったからだと思っている。この点も時間をかけてゆっくり変わってくるだろうが、私の生きているであろう今後20年では多きな変化は起きないと思っている。

このシナリオでは日本経済が回復するとはいえ、日本人の平均収入は少なく、決して経済復活とは言えないと思う読者も少なくないだろう。しかし、私はこのシナリオが今後20年で現実的に起こりそうなシナリオのなかでかなり良いほうだと思っており、これより悪いシナリオはいくらでもありそうだが、これより良いシナリオは現実味の薄いものになると思っている。

さらに台湾をめぐる戦争などが勃発すると経済自体の優先度が下がる。その場合にどうなるかは私には想像できない。


これをもって私の本ブログの2022年の締めとしたい。皆さま、よいお年を!

2022年12月30日金曜日

不透明な世界を考える (3)日本はどうするべきか?

 今回は、世界情勢の中で日本がどうするべきかを考えてみたい。

故安倍晋三元総理は日本の将来に対して明確なビジョンを持った政治家だった。その目的は、日本固有の文化を大切にし、同時に日本を世界で存在感のある国にすることである。これは「美しい国、にっぽん」という標語で端的に示されている。安倍氏は実際にその実現に向けて行動していた。国防に関しては日米同盟を基軸として安全を担保し、そのためのコストは負担する。内政に関しては細かい点がいろいろあるが、その思想は自民党の憲法草案にまとめられていると思う。自民党のホープページにあり、それほど長いものでもないので興味のある方には一読をお勧めしたい。

問題は幸福の大きな要因となる経済政策である。日本経済はバブル破裂以降、低迷を続けている。これに対する対応策として安倍氏は「アベノミクス」を打ち出した。アベノミクスは一時的な効果を上げたが、現在は失敗だったという評価が固まりつつあるように思う。私はアベノミクス自身に悪いところがあったとは思っていない。アベノミクスは金融緩和、財政出動、成長戦略を3本の矢として打ち出し、金融緩和と財政出動は行われたが、第3の矢である成長戦略がほとんど動かなかったので失敗だといわれている。私はアベノミクスの考え方に問題があったのではなく、成長戦略を実行できなかった点に問題があったのだと思っている。これをアベノミクス全体が悪かったように言うのは論点ぼかしだと思っている。

なぜ成長戦略は実行できなかったのか? 金融緩和と成長戦略は政府が主体的に動けば実行できるものであるのに対して、成長戦略は民間の問題であり、民間がその気にならなければ動かない問題だからである。民間はもともと成長したいと思っている。それなのに成長できないのは、問題があるからである。その問題点を実行主体ではない政府が見つけて改良するのは極めて難しい。端的に言うとアベノミクスのうち最も難しい成長戦略は日本政府にはできなかった、ということである。

私は安倍総理の「日本固有の文化を大切にする」という哲学と、経済成長という目標に矛盾する部分が少なからずある、というのが成長戦略がうまくいかなかった最大の理由だと思っている。そもそも、日本文化の殆どは江戸時代以降に根付いたものである。日本文化は徳川幕府、および明治以降の政府が日本を統治しやすくするために、国民に植え付けた価値観が大きく影響していると思う。これが競争原理が本質となる現代経済で日本企業を勝ちにくくしているのだと思っている。端的に言うと日本文化も現代社会に合わせて見直しをしていかないといけないのだが、この点が安倍氏に欠けていた視点だと思う。

それでは日本はどうすればよいのか? 日本独自の手法を打ち出すのは難しい。諸外国の方式を勉強し、取り入れるべきだろう。米国が成功しているので全面的にアメリカの価値観を取り入れ、アメリカ型の競争重視に社会にしていくというのは一つの方法であるが、現在の日本の価値観との違いが大きく、社会に大きな軋轢を生むだろう。日本と比較的考え方が近く、競争原理もうまく取り上げている国として北欧諸国があると思う。北欧諸国の仕組みを日本の国の仕組みとして取り入れていくことが有力な方法であると思っている。

現在の日本の政治家には安倍氏のようなビジョン(私の言葉では哲学)を持つ政治家は見当たらない。皆、目の前の問題点を解決することだけを考えているように見える。ひょっとしたら林芳正外相あたりが哲学を持っているかもしれないと期待している。

2022年12月29日木曜日

不透明な世界を考える (2)経済的豊かさをもたらすもの

 今回はどうすれば経済的な豊かさをもたらすことができるかについて考えてみる。経済的な豊かさは幸福感の最も大きな要因であることはおそらく間違いないだろう。

第2次世界大戦後、世界が資本主義陣営と共産主義陣営に分かれて争った時期があり、共産主義陣営は例外なく経済的に行き詰まり、ソ連のように国が分裂したところもあるし、政治的には共産党独裁政権が続く国でも経済的には殆どが資本主義の考え方を取り入れている。例外は北朝鮮やアフガニスタン、アフリカのいくつかの国のような軍事政権である。

ここでいう「資本主義」とは何か? 私は厳密な定義を考えているわけではなく、訪米や日本のような先進国での企業や個人を単位として利益を求めて経済活動をする仕組みをイメージしている。ちなみに岸田首相は「新しい資本主義」を唱えているが、彼らが考えるこれまでの資本主義は「新自由主義」で市場に任せて各自が利益を最大化しようと行動すればうまくいく、という考え方で、これに対して新しいものを検討している。これは資本主義のとらえ方としては狭すぎるし、現在世界で行われているのは新自由主義ではないと思う。

共産主義の失敗から我々が学んだことは経済発展の豊かさをもたらすものは様々な工夫によるイノベーションであり、それを活性化するには競争原理が不可欠だということである。権力者が自分のやり方を他者に強制するやり方は一時的にはうまくいくように見えても結局は新しいアイデアが出にくくなって衰退する。一方で、様々な企業を競争させて勝者には大きな経済的豊かさが得られるようにすれば、国民一人一人が活性化して全体として大きなエネルギーになり、経済が活性化する、ということだと考えて間違いないと思う。

第2次大戦後の経済発展を振り返ると、1950年から1990年までに最も成功したのは日本であり、1980年から2020年までに最も成功したのは中国である、ということに反対する人は少ないだろう。これらはイノベーションを起こして発展したというよりも、貧しさから抜け出すために、安い賃金でよく働いた労働効率の高さと、先端技術を取り込む動きがうまくマッチした結果だと私は考えている。日本が豊かになると、イノベーションの勝負になり、その分野では存在感を示せていないのが、ここ30年の日本である。

中国は共産主義国でありながら実にうまく競争原理を取り入れた。日本と同様に安い労働力で欧米の技術を取り入れつつ、競争環境を作り出して日本よりもはやい速度で経済発展を成し遂げた。私は国際標準化の場で中国のモバイルオペレータ中国移動の技術者たちとも付き合ったが、彼らは100%政府が株式を所有する企業であるにもかかわらず、官僚的ではなく、民間の技術者と付き合っていた。競争環境に適応していたと思う。しかし、その中国も曲がり角に来ている。労働人口はすでに減少に転じ、政治的摩擦から最先端技術の導入も困難になってきてる。今後の中国経済は困難な時代に入っていくと思う。

貧しくない欧米で、うまくやっているのはやはり米国だろう。米国は、ほかの先進国と比べて競争重視の社会であり、勝者には大きな報酬がもたらされる。それを求めて世界中から優秀な人物が集まっている。米国の仕組みが最もイノベーションを起こすのに適しているといえるだろう。しかし、競争には必ず勝者と敗者があり、敗者をどのように扱うのが良いか、という課題がある。この点に関しては世界各国で様々の異なる対応が出ておりまだ結論が出ていない。一般に勝者よりも敗者のほうが数は多く、敗者に不満がたまると政治的に不安定になる。これが現在先進国で見られている政治的不安定さの原因だと思う。
敗者に施しを与えるのでは十分ではない。敗者がいかに納得してその後の人生を歩めるかが重要だと思っている。  


2022年12月28日水曜日

不透明な世界を考える (1)まず哲学から

 クリスマスが過ぎると急速に年末感が出てきて、私自身もこの1年を振り返ってみた。今回は私自身のことではなく世の中の動きについて整理してみたい。

この1年の最大の出来事は何といってもロシアのウクライナ侵略だろう。メディアでは戦争という言葉を使う人が少なくないが、私はこれは「ロシアのウクライナに対する侵略」であり、「戦争」という言葉を使うのは不適切だと思っている。これを収束させるにはロシアがウクライナから撤退するしかないと思っている。「早く戦争が終わってほしい」などという人はウクライナがロシアに降伏する結末でも良いと思っているのかと勘ぐってしまう。しかし、ロシアが撤退する気配はなく、いつこの侵略が終わりになるかは、見えていない。

国連では持続可能な17の目標、SDGsを掲げ、この言葉は私の周りでも聞かれるようになった。これは人類が今後数百年、生き延びるための国際的な目標だと思っているが、国連決議を全く無視する国があり、その国に対して強制することができない以上、どの程度有効なのかは不明だと思う。仮に米国でトランプ氏が大統領に復帰すれば「SDGsなんか関係ない」と言い出す可能性は高いと思っている。つまり、国連の決定は緩やかな目標という程度だといえる。ただし国連の決定に強制力がないからと言って役に立たないことはない。ゆるやかな合意でも世界の合意の影響力は小さくない。ロシアに対しても力で抑え込むことはできなくても、可能な範囲でロシアを抑え込んでいく役には立つだろうと思っている。

このような状況で、我々は何ができるだろうか? やはり、世界で受け入れられる方向性を提案してまとめていくことができることだと思う。非力ではあるが考えてみたい。

ここ数年、世界は危険な方向に向かっている。ロシアはすでに一線を越えたしまったし、中国も危険な状態に入りつつある。米国でもトランプ氏のような人物が存在感を高め、欧州各国でも極端な意見を言う政党が存在感を高めている。私はこの根本理由が、「世界が第2次大戦後、資本主義圏と共産主義圏に分かれ、資本主義圏が勝ったことによって確立したと思った、『民主主義と資本主義の組み合わせで世界はうまくいく』という考えに行き詰まりが感じられているからだ」であり、民主主義と資本主義の見直しが必要だと思っている。なぜ、行き詰ったのかというと、貧富の差が広がっているからだろう。

 どこから取り掛かるか? まず、「どういう状態が好ましいか?」という哲学から始めるべきだろう。幸福の基準は人によって大きく異なり、一律に決めることは難しい。それでも、国によって違いはあるが、多くの国では国民の幸福を願って体制を作っている。多くの国で受け入れられる基準を目指すべきだろう。確実に重要な要素となるのは経済的豊かさだろう。

誰の幸福を願うか、という点でも合意が取れそうである。つまり国民全体の幸福を願うべきだということである。一部の国では一部の人の幸福だけを求めている。現在のロシアでは国民ではなく「国」が良くなることを狙っている。国民を軽んじてでも国が良くなることを狙うのは、結局支配者個人、あるいは支配者層の幸福を狙っているもので、長続きしないと思う。つまり、「国民全体の経済的豊かさを狙う」というのが、これがすべてではないが、外れのない哲学になるように思う。

民主主義はそのための政治体制だが、選挙制度を含めて今一度、見直しておく必要があるだろう。例えば中国は民主主義国ではないが、鄧小平から胡錦涛までの時代、中国は殆どの民主主義国よりもうまくやっていたと思う。問題は現在のように個人崇拝の性格が強まってきたときに、リーダの暴走を止めることができるかにあるが、今後10年くらいで結論が出るだろう。

選挙で国のリーダを決める民主主義国での問題はいわゆるポピュリズムの台頭である。これはリーダになる人物は国民全体のことを考えずに選挙を自分が権力を握る手段として利用することを意味している。こういう人物がリーダになると、選挙制度を変えて自分に反対する人たちは投票しにくくなるようにして、体制を万全にしようとする。米国も危ない状況だったと私は思っている。さらに進むと警察権力を利用して反対派を抑え込む、こうなると民主主義は形だけのものになってしまう。

それで、どういう方法が良いのか? 私にもアイデアはない。しかし、欧米の有識者は知恵を絞っているはずで、いずれ良い方法が見つけられ、制度として取り込まれるのではないかと期待している。

経済問題に関しては、次回に議論したい。

2022年11月12日土曜日

国産半導体会社ラピダスが成功するとは思えない

 半導体産業の技術覇権を取り戻すためにトヨタやNTTが中心となってラピダスという会社を作ることが大きく報じられている。うわべだけを取り繕う西村大臣の好きそうな動きだと思う。前記2社に加えて、ソニー、NEC、ソフトバンク、デンソー、キオクシア、三菱UFJが加わるという。私にはこの会社が成功するとはとても思えない。

現在、世界の半導体業界は設計と製造が分離されている。設計に特化しているのはアメリカのQualcomm、Apple、NVIDIA、AMDなどで製造に特化しているのはTSMC、Global Foundriesなどである。Intelは自社で設計、製造の両方をやっているが、製造技術で台湾のTSMCに後れを取っているので、設計に特化して製造はTSMCに任せているAMDにシェアを奪われ経営が悪化している。韓国のSamsungも両方やっているがやはりTSMCには敵わない。

このような状況になっているのは微細化が進んで最先端の半導体を作るのが非常にむつかしく、工場を新設するのに1兆円以上の投資が必要になるための、大量の受注を見込める企業しか最先端半導体の製造工場を作れなくなっているからである。

このような状況でラピダスはどんな事業を狙うのだろうか? 日経の記事によると設計、製造の両方を狙うように読めるが、それはほぼ不可能に思える。記事はどちらかというと製造に力点を置いているように見えるので、まず製造の観点で見てみよう。

最先端の半導体製造工場を作ることは非常にむつかしい。最近、TSMCの工場を熊本に誘致する話が進んでいるが、それは12/16nmという3世代前くらいの古いプロセスで、それができたからと言って、最先端の工場を作れるようにはならない。仮に2nmの最先端半導体を作る技術ができたとして、それを果たしてAppleやQualcommから製造受注できるだろうか? 実績のないラピダスが既に実質的に独占の状況にあるTSMCに受注合戦で勝つのは極めて難しい。現にSamsungでも非常に苦労している。

設計のほうはもっと難しい。最先端の工場で作るのは高価格で大量に出荷されるCPUや無線チップであるが、それらの設計を行う技術はすでに日本にはない。少なくとも10年は無理だと思う。要するに1兆円かけて投資した工場で回収できる見込みは立たないといってよい。

最大の問題である工場の採算をどう考えるか、メンバー企業にシナリオを作れそうなところはないと思う。

その一方で、政府がそれを求めるのは理解できる。それは現在世界で独占的立場にあるTSMCが政治的に微妙である台湾の企業だからである。中国の台湾進攻を懸念する米国政府も同じ思いだろう。そうであるならば、米国政府と協力して日米合同のチームを作ってAppleやQualcommも巻き込んだプロジェクトにするべきだろう。それならば製造工場ができれば活用できるシナリオは描ける。しかし、現在の日本の政治家にこのようなシナリオを描いて実行に移せそうな人は居ないと私は感じている。

2022年8月19日金曜日

ミステリードラマから感じる日本文化

 ウィトラの活動を停止して、私は昼の時間帯にテレビドラマを見ながら株価をチェックしたり、囲碁のプロ棋士の対戦を見ることが多くなった。私は刑事ものが好きなのでいわゆるミステリー作品を好んで見ている。殆どが過去の放送の再放送である、夜の時間帯の本放送は見ていないことは多いので楽しめている。

数多くのミステリードラマを見て二つの日本文化の特徴ではないかと感じる点がある。

1)日本人は変化を好まない
よくあるパタンとして地方の自然豊かな地域の再開発にかかわる殺人事件がある。この場合、ほぼ確実に再開発推進派が欲にかられた悪人で犯人側である。善良な市民は昔からの自然を守って、変化を望まない、欲のない人たちである。料理にかかわるテーマでも、昔からの作り方を頑なに守るのが善良な人で、変化を求めて新作を開発するのは犯人側である。ドラマの中であるが、「変化を求めるのは悪い人」という刷り込みが行われているように感じる。これは江戸時代の身分制度の固定化を正当化するための徳川幕府の政策が源になっていると思っている。
変化を嫌う社会の気風が、社長が「イノベーションが大切」と言って旗を振っても社員がついてこない一つの理由になっているように思う。

2)犯罪の動機として「復讐」が多い
日本のドラマでは動機として「復讐」の比率が非常に高いと感じている。私は海外の刑事ドラマをあまり見ていないので日本だけが復讐が際立って多いと断言はできないのだが、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンの小説を読んだ印象だと復讐は少なく、大部分が個人の欲が動機になっていて頭の良い犯人がそれを巧みに隠す、というのが欧米型のように感じている。
これは江戸時代に「仇討ち」を公式に認めていた影響が残っているのではないかと感じている。今のドラマでも「復讐は良くない」と言いながらも、復讐する犯人にシンパシーを感じるような仕立てが多い。江戸時代に仇討ちが公式に認められていたのは警察権力が貧弱かつ恣意的だった点を「殺人すると仇討ちされる」という民間の力を借りた処罰の仕組みで犯罪の抑止力にしていた江戸幕府の政策ではないかと思っている。

明治維新から150年以上経っているが今でも江戸時代の社会哲学の影響が色濃く残っているのは明治以降の政府にとっても人民統治をやりやすくすることが関係していると思う。今、自民党の憲法草案で「日本社会は家族を大切にする」と個人ではなく家族を重視しているのもその名残だと思っている。