2020年9月25日金曜日

囲碁タイトル戦のリアルタイム中継の迫力

 現在、囲碁の名人戦7番勝負が行われており、昨日はその第3局が行われた。20歳の芝野名人に30歳の井山3冠が挑戦しているのだが、ここまでは井山挑戦者の2連勝である。

昨年の今頃は、40歳の張栩名人に19歳の芝野氏が挑むという構図で、その時に、以後の世界では急激に若手が強くなっているので、挑戦者が勝つだろう、と書いた。若手が強くなるのは一番強いのがAIになったので、勉強する環境が誰にでも与えられ、経験の要素が小さくなるからで、棋士本人の思考能力では20歳代がピークだと私は考えているからである。結果は予想通り19歳の挑戦者が安定した勝ち方を見せて名人位を獲得した。その後も若手が挑戦して勝つことが続き、当時30代後半から40代前半の棋士が持っていたタイトルは全て若いほうが勝って、現在のタイトルホルダーの最年長は井山3冠の30歳である。

現時点では日本の囲碁界の最強棋士は井山3冠であることは、衆目の認めるところだが、井山3冠も30歳を迎えたので今後下り坂になっていくと思う。しかし、彼の才能は例外的なので35歳くらいまでは何らかのタイトルを取り続けるだろうと思っている。さて、ここからが今日の本論の名人戦第3局の中継についてである。

名人戦のような大きな対局は中継がつくが、動画中継と、碁盤の盤面のみをコンピュータ表示にして中継するアプリ中継がある。どちらにも解説がつくが、動画中継の解説は殆どが若い人なのに対してアプリ中継の解説者の年代は様々で、昨日は40歳代の人だった。私は普段はウィトラのオフィスでパソコンを使いながら仕事をしているので、インターネットで中継を見ることができるのだが、動画だと、1時間も一手も進まないことがあり、見ているのも退屈だし、仕事も進めにくい。そこでアプリ中継を立ち上げて、仕事をしながら時々どうなっているかを確認するような見方をしている。昨日の解説者はパソコンに慣れていないらしく、入力に時間がかかるようで、解説が遅れ気味だった。

対局は中盤で芝野名人が強手を放って優勢になり、井山3冠がどう巻き返すかが興味の中心だったが、大きな山場が終盤に現れた。その時は双方ともに残り時間が少なくなっており、3分程度で1手進むというペースで非常に難しい戦いが進んでいく。そうなるとアプリ中継の解説者は、おそらく入力が間に合わなくなり、殆ど解説をしなくなった。そこで動画中継アプリ中継の両方を立ち上げて同時に見ていた。

動画中継の解説者は、次々と自分の読みを示して、芝野名人の勝利は間違いなく、そろそろ終わりが来るだろう、と解説していた。ところが井山挑戦者の鋭い勝負手が出て全局的に大きな戦いになり、どちらが勝っているか分からないような状態になった。解説者自身も興奮して「これは大変なことになった」を連発していた。結果的にはわずかに井山挑戦者の反撃が及ばずに、芝野名人が1勝を返した。

この中継を見て感じたのは、「リアルタイム中継」の迫力である。スポーツでも何でも、録画よりはリアルタイム中継に迫力を感じる。囲碁の中盤のように30分で1手というような場面ではリアルタイム中継は退屈だが、終盤のリアルタイム中継は対局者の表情も見える動画中継に迫力がある。

同時に解説者の資質についても感じるところがあった。ITを使い慣れた解説者でないと、解説が遅く間に合わなくなってしまう。解説者よりも対局者のほうが強いので、対局者の狙いを解説者は正しく把握することができない。これは仕方のないことなのだが、若い解説者は他の人の意見を聞いたり、どんどん読みを進めて間違えることを恐れない。これに対して年長者はプライドがあるのか、他の人の意見をあまり聞かず、自分でもどれが良いか分からないときは解説できない状態になる。囲碁の解説でも、若手優位がIT技術の進歩で加速しているように感じる。

2020年9月16日水曜日

菅義偉新総理への期待と危惧

 予想通り、菅義偉前官房長官が自民党総裁になり、内閣総理大臣に任命された。

菅氏に関して私は裏で動く印象があって、あまり良いイメージを持っていなかったのだが、自民党総裁選挙での色々な発言を聞いて評価は上がってきた。デジタル庁の創設、地銀の集約、中小企業の集約など、着眼点は良く、実行できそうな政策を掲げていたと思う。ちなみに自民党の総裁選挙での発言を聞く限り政策として最もしっかりしたビジョンを持っているのは石破氏だと感じたが、具体性では菅氏だった。

縦割り行政打破のために、例えば川の氾濫防止のために、国土交通省の管理するダムだけでなく、農水省や自治体の管理するダムでも意識を合わせて事前放流するなどは、菅氏が縦割り行政打破の事例として挙げていたが、ちょっとした協力関係で実現できることなので、この種の事例は今後増えてくることが予想される。一方でデジタル庁のような大きな話は、各省庁で握っている権限を手放させて一か所に集約しないとうまくいかない。これは官僚の強い抵抗が予想されるので、よほどぶれない、強い大臣でない限り前に進まないだろうと思っている。

私が推奨している公共LTEという各省庁の無線システム統一化の話も、規制改革会議では「進めるべし」という結論が出ているにもかかわらず、各省庁の無線官僚が抵抗していて話は動いていない。今回、菅氏が総理大臣になるので公共LTEも動くかと期待したが、武田総務大臣では動かせないだろう。デジタル庁はまだできていないがデジタル担当大臣の平井氏が担当になるとすれば、全くの力不足である。いずれも、菅氏自身がかなり情熱を傾けないと前に進まないだろうと思う。

私が大きな問題を抱えていると思っているのは厚労省で、福利厚生関係、医療関係のいずれも官僚の意識に大きな問題があると思っている。民主党政権時代に長妻大臣が官僚と対立して全くうまくいかなかったが、安倍政権に代わってからも厚労大臣は官僚をコントロールできていない。COVID-19対策では医療官僚をどう動かすかが問題となったが、今回官房長官に移った加藤大臣は全く官僚をコントロールできず、厚労省のスポークスマンとしてしか機能していなかったと思う。官邸がPCT検査を増やそうとしても、なかなか増えず、いまだにどこがボトルネックであるかすら明らかになっていない。今回、石破派の田村大臣を任命したが、石破氏本人くらいでないと動かせないだろうと思う。今回の内閣は全体として、手堅い感じはあるが、大きな仕事はできず、細かい改良を積み上げる内閣になると私は予想している。

一方、危惧も感じている。それは安倍政権時代に行った官僚システムの破壊である。特に森友学園問題における財務省、加計学園問題における文科省では正当性のない人事を行い、忖度体質を作ってきた。菅氏はこの対応でも大きな役割を担ったと思っている。官僚の側にも問題がある場合は少なくないので、政治家がトップ官僚の人事を握っていることは悪くはない。しかし、菅氏は正当性のない人事でも行うような人物であることは十分に注意しておく必要があると思う。

2020年9月11日金曜日

日本の社会哲学は見直しが必要

 ここ数年、私は1年に1回程度、社会哲学に関するブログを書いている。社会哲学とは「社会性を哲学する」というような意味合いで使われることが多いようであるが、私は「社会を特徴づける哲学」もう少し具体的に言うと「社会を特徴づける価値観」という意味で使っている。

「特徴づける」とは他の社会と異なって重要視されている価値観、と言える。企業などで独自の価値観を持っていてそれに合う従業員の実を採用するイケアのような企業は「企業哲学」を持っていると言えるだろう。ここでは国毎に異なる価値観つまり国の哲学を対象としたい。

例を挙げると米国の社会哲学は「自由と競争」、ドイツの社会哲学は「論理の積み上げ」、北欧の社会哲学は「自立した個と相互扶助」であると思っている。日本はどうかというと「組織に対する深いコミットメント」だと思っている。日本の企業人の犯罪は「組織のため」ということが非常に多い。これに対して外国の企業人の犯罪は「自分のため」が殆どである。日本人は組織を護るためならば自分個人のためよりも反社会的行動をとる規律が下がるように思う。

また、大学でも企業でも日本では「ある組織の一員になる」ことを非常に重視して、組織のメンバーとなった後は組織が「個人を育成してくれる」という期待を持っているし、組織でもできるだけ全員を引っ張っていこうとする。

自民党の総裁選挙であっという間に実質的勝者が決まってしまったのも、自民党の議員が自分で選択しようとせずに、自分の親分の判断に無条件で従うような社会になっているからだろう。小泉元総理が派閥を壊そうとしたが、彼が総理大臣から離れるとたちまち派閥原理に戻ってしまった。国会議員も自分の親分がいないと不安になるのだろうと思う。

このような日本の社会哲学には良い面もあるのだが、今後世界との競争が激化すると思うと、勝ち抜けないのではないかという危惧を私は感じている。20世紀前半に共産主義が資本主義に代わる概念として登場して一時的にはかなりの勢力になったのだが、結局は共産主義国は経済的に発展せず、経済運用としての共産主義は消えていった。これは計画経済はいかに良くできたものでもイノベーションが起こりにくく、個人が欲望に基づいて次々とアイデアを出す資本主義に追従できなかったということだと思っている。これからの社会はイノベーションを起こしやすい仕組みになっていないと淘汰される。イノベーションを起こしやすくするには個人個人のアイデアが出やすくするする仕組みが不可欠だと思っている。

それではアメリカ型にすれば良いかと言うとそうではない。日本の特徴を生かした価値観を打ち出していく必要がある。昨年私は「和して同ぜず」はどうか、と書いたのだが、今はこれでは弱く、もっと個人の自立を強く打ち出す必要があると感じている。ただし現時点で適当なアイデアは無い。いずれにせよ、「日本の社会哲学はどうあるべきか」、広範な議論が必要だと思う。




2020年9月7日月曜日

日本人はプログラムは書けるがソフトウェア開発は不得意

 私は日本のソフトウェア開発力が低いと何度も書いてきた。これは政府でも認識されているようで小学校からプログラミングの授業を導入すると言われている。プログラミングはソフトウェア開発の重要な要素なので子供の頃から教えることで一定の効果はあると思うが、それでは問題は解決しないと私は思っている。私は日本人のプログラミング能力は低くないと思う。

ではなぜ、日本人のソフトウェア開発力が低いのか、事例を挙げて説明してみよう。私が大学に勤めていた頃、定期的に自分が主催で講演会を開催していた。講演会のたびにアンケートを取りその結果を将来の講演会の参考にしていた。100枚くらいのアンケート用紙を学生に渡して「これを分析するソフトを作ってほしい」と言えば、ある程度ソフトウェアを勉強した学生なら簡単に作る。こういう仕事は日本人は決して不得意ではなく、むしろ得意かもしれない。

ところが、「講演会は何度も開催するのでそのたびに分析する必要がある。全体として分析の手間を最小にするプログラムを作ってほしい」というと、学生は困ってしまう。将来、どんな講演会を開催するかは決まっていないし、単独公演の場合も、シンポジウムも、パネルディスカッションもある。これを作るためには「講演会とは何か」を考えて抽象化する必要がある。決まっていないことをあれこれ悩んでも仕方がないのだが、このようなことをまず考えて、自分なりに整理してから取り掛かると、出来栄えが違ってくると思う。日本人は小学校から高校までこの種の教育は全く受けていないし、大学でも殆どこの種の教育は行われていない。しかし、留学生と話すとこの種の問題に対して手応えのある反応が返ってくることが多いと私は感じている。

言うまでもないことだが、ソフトウェアの特徴は製造コストがゼロで開発コストが殆ど全てだという点である。従って将来を見据えて開発コストを抑えた開発を最初から考えることは重要である。日本人のプログラミングは「ハードウェア開発の感覚で作るソフトウェア」だと感じている。先日、「自治体のシステムを統一する」という政府の動きについて書いたが、ここでも「うまく作れない気がする」という私の懸念はこの「ハードウェア感覚で作るソフトウェア」という点から来ている。